未分類

263.日本が限界を超えて行く方法~千葉県の危機と日本の中心に位置する愛知県の意識について~

米国では先日大統領選が行われ、トランプさんが時期大統領になられることになりましたね。米国もそして関わりのある世界中の国々もこれからまた新しい歴史のページを開いて行くことになるのでしょうね。

それではここ日本はと言いますと、最近、首都圏の一県の千葉県の状態がまたとみに悪化し、このまま進んだとしたなら少なくとも千葉県さんへの~そしてもしかすると日本全国へも~スピリチュアルなレベルの保護や庇護が少なくとも薄くなるのではないかという風に思われるようにもなって来ていまして、最悪と言っても良いような状況になって来ています。

日本という国では、各県がそれぞれに取り組むべきテーマや課題を持つようなのですが、千葉県さんの課題は誠実さを最高のレベルで表現するというものですけれども、今回の悪化のきっかけとなっていましたのは「他者へも誠実に生きる(かどうか)」というところでつまづいていらしたことなのですが、”またとみに、、”と表現しましたのは、数ヶ月前にも現在の状態ほどではないものの随分お悪くなっていたからです。

千葉県さんは、日本の多くの県がなさっているように「痛むところを乗り越えてでも自分たちをさらに開いて進化して行こう」という風になれない県のようで、そのためでしょうか、あるいは問題をどうしても乗り越えられなかったからでしょうか、今年の夏頃には、県全体の意識が随分内向きになられたように見えました。その時には「このまま進んだとしたなら、千葉県内だけで(しかも千葉県さんの場合は”出来る所は”ということにもなるのですが)仲良くすればいいかといったところへ落ち着き、そのため最悪の結果になる可能性がある」と思っていましたが、ここ最近はその時のレベルから更に落ち込むようになられて、数ヶ月前に行っていた予想は最悪の事態というわけではなくもっと悪くなる可能性が開けて来ているように思います。

千葉県のこれまでの状況というのは、ご自身に誠実に生きられるようになるというところまでは変容や進化も大変順調だったようで、ご自身についてでは常に非常に高いレベルで誠実に生きられていらっしゃるのですけれど、他者へも誠実に生きる(かどうか)ということについてはそこからは先へ何か進めないといったご様子です。自分に対して高いレベルで誠実に生きることに他者へも誠実に生きるということが加わり、誠実さの表現においても自他への二つが揃って初めて到達出来る心境や実現可能となる幸福というものがあると思いますがご存じないのでしょうか。

いずれにしましても千葉県(民)さんは、他者へも誠実に生きられるようになられないと、最悪のケースとしてスピリチュアルなレベルの保護や庇護が薄くなってしまうという将来の結果が考えられうることとしてあります。ですので出来る事なら他者へも誠実に生きられることもお出来になるような方向へと変容なさり、進化なされたら本当に良いですね。スピリチュアルなレベルの保護というのは、それが無くなった時には間違いなく大変なことになりますし、少し薄くなるだけでも、そのスピリチュアルレベルでの変化が目に見える形として生じ、現れるようになり、何かと困難となる物事や分野が出て来ると思います。そしてまたもしかすると日本全国へもそのことでマイナスの影響が及ぶこともまたあり得ることですので、自県のためだけでなく日本のためにも進化していただけたらと願っています。

そのように今、千葉県という日本の精神的支柱となる地域(関東首都圏)の内の一つの県が危機的な状況にあります中で、今号では、日本にとってその関東首都圏のような存在ではなく地理の位置的に丁度中心にあります愛知県の意識のことから日本が限界を超えて行く方法について書いてみたいと思っています。

§ 日本の限界と、それを超えるための方法 §

今年、首都の在る東京都では豊洲市場建設に関する大問題で大変な騒ぎが生じましたが、豊洲市場の建設にも繋がります日本のものづくりの事情について、「日本はとてもとかある程度良いものを作ることはこれまでにもして来ているしまた出来る国。しかし本当に良いものを作ることが出来るかと言うとそうではない。」という内容のコメントをお読みしたことが以前にあり、その時には「このことが真実だとしたなら日本人にとって随分悔しいことではないか」と思いましたが、しかしながら日本のことが同じように見えることが私にも確かにあるとも思いました。

どのようにすればそういった日本の限界というものを超えて行けるのかについての答を見つけようとする時には、東京都には確かに日本の首都が在りますし、関東首都圏は日本の精神的支柱である中心の地ではありますけれども、その地域だけを見ていても簡単には分かるようにならないという気がしますし、日本の歴史の中ではとてつもなく有名な織田信長という人物を出した地域の、地理的に日本の丁度中心に位置する愛知県について考察してみるのも良いと思いましたが、そういった愛知県の方々の意識としては~実際にはものづくりに携わっていらっしゃる方から~「完全なものなんか無い(のに)」という心の言葉をお聞きしたことが最近あったことを思い出し、おそらくこのあたりが日本が本当には良いものを作ることが出来ない国になってしまっている状況や問題の核心ではないかと思われます。

問題の核心部分と思われます「完全なものなど(どこにも)無い」という意識が、完全を最初から目指さない→何かを作る時にも完全な物が出来るようには行わない→とても良い物は作れても本当に良いものを作ることは出来ないといった日本の(ものづくりの)循環を創造して来ていて、それでこの度の豊洲市場の不完全な状況やそれ以外にも完全とは言えない創作の結果というものをこれまでにも導き出して来たのではないかと思います。

今後もしも愛知県から「完全なものはある」と思えるような変容や進化がまずは生じ、その後、そういった意識が日本人の意識全体に深く行き渡り、根付くようになったとしたなら、これまでのところは存在し、どうしようにも超えることの出来なかった限界を超えることも出来るようになり、到底不可能だったようなことも出来るようになって行くことでしょうし、日本も本当に良いものを作れる国になることが出来るようになるのでしょうね。

そうなると、そういった日本の偉大さや素晴らしさが世界へもまた響き渡ることになることと思いますし、東京都に生じた豊洲市場問題ついて言ってみますと、新しく市場が建設される時には完全と言っても良いような本当に良い市場が作れるようになるのだろうと思われます。

§ 日本が本当に良いものを作ることが出来る国になるために~日本女性(原理)の持つ力について~ §

問題の核心が明らかになったと思いますので、次に、それらを適切にそして上手に支えることを可能にし、より良い援助が行われやすくなりますように、日本における女性(原理)の力とその使い方について書いてみようと思います。

日本人を世界的に見た時に、そのスタンダードからかなりかけ離れている点がありますが、それは、日本では女性(原理)が強大であり、いわゆる”かかあ天下”の伝統がある点です。そのように日本のかかあ天下の伝統は世界の多くの常識とかなり違っている点であり、またそのことは、日本が本当には良いものを作ることが出来ない国になっているということにも関わりがあると思われます。ここではそういったことについて宗教の禅を例にして書いてみようと思います。

今ではもう亡くなられておられます宗教家で和尚という有名な方がいらっしゃいますが、その方が禅について「インドでその種が出来、仏教徒のボーディダルマさんが中国に渡ったことによって仏教と道教が合わさって芽が出ることとなり、日本で花開いた」と仰っていたそうですが、そのような禅も、日本の女性(原理)が強大である事情やかかあ天下の伝統によって、本当の意味では栄えることが出来なかった宗教ではないかと思います。

本当に栄えた宗教には、始祖ですけれども仏教ならお釈迦様、キリスト教ならイエス様といった誰もが知るほどの人物が現れておられますが、禅が日本で花開いたという割には有名な方はいらっしゃると思いますし、私も鈴木大拙さんなら知っていますが、それでもお釈迦様ほどに知られている高僧という存在は今も出て来ていらっしゃらないと思います。本当に栄えたものであれば例えばお釈迦様ほどに誰もが知る人物が出て来ていると思います。

それでは何故日本で花開いたにもかかわらず頭打ちとなってしまっているかと言いますと、(“かかあ”となっているあるいはそうなるであろう)女性に受けが良くない宗教だったからと思われます。

禅では、普通の見方からすると一見はとんでもないと思ってしまうような答を授かる場合があると思いますけれど、女性はそれらを良くないものと感じたり、また子育てを任される女性という立場から見た時には承服出来ないように思えたり、また子供にどのように説明すれば良いか分からないといった類の答があったりもすると思うのですが、そういったことで女性も認めきれないということがあったりしたのでしょうし、そういった事情や状況が信者さんや男性にとって「女性(原理)には調和しないようだけれどもではどうするか」といったような重大な選択を行わなければならない分岐点を発生させるようなことにもなったのではないかと考えられます。

そういった分岐点にさしかかった時に、「調和を捨て置く」という答が出されるということはあることですが、禅でもそのように「それならば日本女性(原理)とは調和出来ず仲良く出来なくても良い」という結論が出るということがこれまでにあったとしたなら、誰もが知る高僧も現れるレベルへも到達出来た可能性もあったような宗教と思いますが、日本の事情によってそうはならなかったようですね。

禅を良いとして信じる(男性が)女性(原理)とも調和したいと思い、女性との不和は避けたいと無意識の内にでも考えたようなことからある程度の地点で頭打ちのようになってしまったのだろうと思われるということなのですが、日本ではやはり女性(原理)が強く、そうでない国々と比較すると女性と調和出来ないことでマイナスが多大に生じることがあります。

折角日本で花開いた禅も、女性(原理)が強いことが原因で頭を打ってしまい、仏教でのお釈迦様、キリスト教でのイエス様のような方が出現するほどにはそうなれなかったという意味で本当に良いレベルにまでは達しなかった宗教と思いますが、禅の発展におけるこういったケースのように、日本では、女性がどのようにするかが重大な分岐点を創り出したりポイントとなったりするようですので、日本の女性たちは、自分たちのそのような力を意識するようにし、物事がより良く幸福な方向へ進むようにしたりまた発展もして行けるように心を遣うということが大事と思います。

※ グラスシーリング問題という社会問題がこのような日本でも起きてはいるようですが、かかあ天下の伝統が元々存在している国でのことですので、他国でのケースとは、時には微妙にそして時には大きく根本的にその意味や影響が異なっている場合があります。

§ 創造性の豊かな国、日本~豊かな創造性に完全さが加わると~ §

変容や進化が実って完全なものはあるという意識が根付き、ものづくりにおいても女性(原理)の力がより良く働くようになると本当に良いと思いますが、ここからは、日本が実は創造性の豊かな国であることとそのことに完全さが加わったとしたなら、、ということについても書いてみたいと思います。

先月16日のスペースラブ・ブログにギリシャのムサカという料理について書いたことがありましたが、日本は食事や料理において、関わりを持った他国の料理を自分たちの味覚や口に合うようにいわば天才的に変えたりするなどして来たそうで、他国の料理を創造的に取り入れて来た国のようですね。またメールマガジンにもこれまでよく書いて来ました前世紀の第二次世界大戦の戦い方について見た時にも、これほど小さく自然資源もそれほど多く持っていない国がよくまああれほど戦えたもの、、と思うようなところがありましたので、日本という国は、一見はあまりそんな風に見えない気もしますけれども実は創造的な国であり、創造性を豊かに発揮してきたという一面が確かにある国なのだと思います。

その第二次世界大戦の際、日本がその戦い方に完全さを行き渡らせることが出来ていたとしたなら、敗戦することを推測することともなり、あれほどまでは戦うことが無かったようにも思われます。もしもそのようになっていたとしたなら”戦争という出来事を創造しない”ということになりますが、それではそれですべて良いと言えることになっていたかと言うとそうではない気もしますけれども、ことは戦争ですので(そんなには)戦わないということになっていたとしたなら、やはり良いことも沢山あったのではないかと思います。

料理や食事において、「完全なものはある」という意識を行き渡らせて行うことが出来たとしたならということでは今の私には少し分かりかねますのでここで書くことは出来ませんけれども、日本が、創造的なことに加えて完全さを求めるようになった時には、難航することもかえって出て来るとは思いますしすべてが良くなるとも思われないのですけれども、やはり良いことに繋がることも多く生じるのではないかとも思いました。

先ほど書きました豊洲市場を建設することにおいては、創造性を発揮して取り組んでいらしたようには思われなかったため、そのことに関してであれば「完全なものはある」という風に意識が癒されて行くとただ本当に良い市場を作ることが出来ただけとなるように思われますし、完全と言っても良いほどの市場を作ることが出来るようになると思いましたが、豊洲市場のこれまでのケースとは違って日本が創造的に行っていらっしゃる分野に関しましては、そこに完全さが加わるとやや灰色で曖昧となる部分も見え、すべてが良くなるというわけではないものの、やはりより良くなったり改善なされるということも多く生じるようになるのだろうという期待を持って良いようには思われます。

そしてまた創造性を発揮しているところに完全さが加わると、、というお話とは少し違うことですが、冒頭部分に書きました千葉県さんが現在抱えていらっしゃる問題についてでは、自分については誠実であるようにしたけれども他者に対してはしないという風になっていますので、自他の二つを揃えるようにはしていないというところが完全さを求めていないとか完全には行っていないと言えるかもしれませんね。

千葉県さんの今の危機に「完全なものはない」という意識は直接には関係していないように思いますけれど~日本の他県のようになさっていないということが直接的に関係しているようですけれども~、「完全なものはある」という意識が日本全国へ深くしっかりと根付くようになった時には、千葉県さんも、最近乗り越えられないでいらしたところにおいてももっと容易に乗り越えられるとかそのため今のような危機を迎えることもなく済んだということに繋がるのかもしれませんし、「完全なものはある」と思えているからこそ同じようなケースや他の問題ももっと簡単に解決して行ったり、最初から問題が起こらないということになったりするということが言えるのではないかと思います。