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257.精神の病気から事件や事故を引き起こしてしまう人について

健康であるということとは病気が無い状態と言って良いと思いますが、時代によっても変わることがあり、またそれだけでなく地域や個性によるところがあるものです。時代や地域そして個性によっても何をもって健康であると見なすかが変わることがあるでしょうし、それぞれに基準が異なるということがあるものと思います。

病気についてでは、健康であることを表すこと以上により確定的なものとなり、またそれだけでなく任意によるところも孕んでいると思います。

病気には数多くの種類がありますが、健康であることを表す時よりも確定して示されるものと思いますし、またそのように確定的というだけでなく任意的なところもより持つ場合があると思いますので、何を持って病気と見なすかについては、健康以上に時代や地域によって変わる部分が生じたり、基準が違って来たりもしますね。

そういった病気の中でも、精神面の病気と言うとよりいっそう任意によるところを孕みますし、その人のスピリチュアルな状況がよりいっそう関わるケースもあります。

スピリチュアルな面から発生する病気というと今生だけでなく過去世のことまで含まれたり関わる場合もあり、ある種壮大なお話になるということもありますが、そういった精神の病気に数も多くの種類があったり地域や個性によって変わることがありますし、時代によって新たに発見される病気もありますが、ここでは、全体的に機能しておらずバランスが欠けている時にその影響が精神へ及んだために病気となっているといった事態のお話に焦点を絞って、精神の病気から事件や事故を引き起こしてしまう人について書いてみたいと思います。

1 「お金さえあれば(例えば「他の不足はあっても良い」)」のアンバランスの例

今年はブラジルでオリンピックが開催されることになっていますが、ブラジルは以前から麻薬に関する問題を抱えている国でしたね。

麻薬問題というのはお金に関わる物事が原因の一つとしてあるものと思いますが、ブラジルの麻薬問題からは「お金さえあれば(例えば「他の不足については在っても良い」)」といった精神のアンバランスが見えて来ます。

ブラジルの国境はボリビアやペルーなどと隣接しているのですが、そのボリビアやペルーはコカインの原産地となっており、そこで取れたコカインは精製されてブラジルやアメリカなどで元々の価格とは比べものにならないくらいに高くなった値段で取引されることから、精製・密輸・密売ビジネスが巨額の富を生むようになってブラジルにも麻薬組織が出来たそうですし、またそのことで治安の悪化問題も生じているそうですが、このような状況から、ブラジルでは特にお金と他のこと例えば治安の悪化や安心して生きられる環境作りなどとのバランスが取れていないということが見えるものになっていると思います。

麻薬取引によって巨額の富が生じると書きましたが、富を心から愛するという人の場合であれば「お金さえあれば」といった意識を持っていても一般に難なく順調に幸福になるのですが、そういった富を心から愛する少数の人以外は、原則として「お金さえあれば」といった意識を持っていても結局の所幸福になることは出来ません。ですので大体の人々にとってはそのような意識は原則として不要なものです。※何かを心から愛するかどうかは、それを永遠に愛するかや愛せるかをハートに聞いてみると分かるものと思いますが、お金を未来永劫に愛することが出来るかを自分に聞いた時に、心からそう思う人はそれほど多くないと思われますので殆どの人がそうではないと書いています。

殆どの人々にとっては「お金さえあれば(他の不足はあっても良い)」といった意識は必要の無いものであり在り方ですので、少数派以外の富を心から愛することのない人々の内でお金さえあればという意識を持っている人にとっては、その意識と周辺についている分野の諸々を不要なものとして捨て去ることが最善となり、また他のことも大事にして行くよう変容したり成長なさって、もっと全体的に機能した状態へと向かうことが大切です。

ブラジルの人々もそのよう変容して行かれてアンバランスを解消なさり、バランスの取れた生き方が出来るようになられると、もっと全体的に機能出来るようになって麻薬に関する問題も解決することが出来るようになるでしょう。

2 (大きな金額にはそうではないのに)少額のお金には見向きもしないアンバランスの例

もう亡くなられた方ですが、何かと「たったこれだけのお金」「これっぽっちの金額」という表現をなさることがあった方がいらっしゃいました。

その方はギャンブルにも定期的に行かれていたようでしたが、そのギャンブルも破滅するようにはなさらなかったため、そういったことについてよりも働かないということについて奥様がこぼされておられた方でしたが、”真面目に”という点でも”(奥様からすると)働かない(人に思える)こと”で結婚生活に少し問題が生じていました(奥様はご主人よりも先に、もう既に亡くなられておられます)。

この方の言葉からは、大きな金額にはそうではないのに少額のお金には見向きもしないといったようなアンバランスが見受けられていたのですが、このようなアンバランスが生じた原因の部分には、ご自身に関する見方の姿勢の問題~自分にはどれくらいのお金が相応しいかと考えること~があったと思われます。そういったところからご自身とお金に関する見方にバランスの欠如が生じて少額のお金を軽視することとなり、働きにくくなったりもしていたと思いますし、またそのことで結婚生活も完全には円満にならない原因を自ら作ってしまうといった状況になっていたと思います。

一円を笑うものは一円に泣くという諺がありますが、その諺の意味とは違っていますがこの方の場合の一円に泣くの内容は、奥様との関係性についてではご自身が願っているほどは円満な状態にならないようにしてしまって泣いておられたと思いますので、大きな金額にはそうでないのに少額のお金には見向きもしないといったアンバランスを解消されると働くことも出来るようになられ、結婚生活をより幸福なものにすることが出来たことと思います。

3 (他のことは大事にし愛しもするのに)失うことは憎み、忌み嫌って、愛そうとはしないといったアンバランスの例

何かと「(それを)失うのに?」「お別れが来るのに?」などと仰るアルコール中毒の方のケースには、失うことがあまりにも怖いためにお酒を大量に飲んでしまうようになられたのではないかと思ったことがありましたが、その失うことへの恐怖のもう一つ奥には、失うことを憎み、忌み嫌うといった姿勢があると思われました。

何かを憎んだり忌み嫌うということ自体には問題があり、またそこから新たな問題までも生じるということは皆様もご存じと思いますが、この方のケースでは何故失うことを憎み、忌み嫌うようになったのかと言うと、失うことによる内面の痛みを感じることを避けようとしたことから始まったと思います。

内面の痛みというのは、直面したり経験するのを避けようとするとかえってそうする循環によって生じる恐怖が、避けている期間が長ければ長いほど大きなものになって行きます。そうするとだんだんとその恐怖が非現実的な重みや大きさともなって、その人を襲うようにもなるのですが、そこまで行ってしまうと怖いから痛みを避ける、だから余計にどんどん怖くなる、やがてはあまりにも非現実的な形や大きさにもなってしまった恐怖が内面に残り、ついには当初の痛みを始めとした真実にも全く触れられなくなって、問題を解決するなんてとんでもない(ことにも繋がるかも)といった状態になるものです。初期の段階で早々に真実に直面したり、必要なら解決もしていれば恐怖も問題も形を変えて異様な形状になったり現実以上に大きくなったりもしないのですし、この方のケースでは憎しみなどに変わるとか憎しみが加わるということも無かったのでしょうけれども、他のことは大事にしたり愛することもしていらっしゃるのに失うことにだけはそうでない方のように見えましたので、最初に失うことに伴う痛みを避けようとしたばかりにだんだんと失うこと(だけ)は憎み、忌み嫌うようにもなってしまったのだと思われます。

他のことであれば大事にしたり愛する方でもいらっしゃるのですが、今号のテーマのバランスのお話に戻りますと、上に書きました経緯を経た結果、失うこととそれ以外のことに臨む姿勢があまりにも違って来るようになってしまってアンバランスな状態となり、アルコール中毒になってしまったのだと思います。失うことは憎んだり忌み嫌って、好きだったり大事と思えるお酒や人とのお付き合いばかりを取り立てるようになって愛情を注ぎ、そうしてお酒(だけ)をいつも大量に飲んでしまうということになってしまったのでしょう。そのときには、お酒を酌み交わしていれば失わないとかお別れも来ないような錯覚すら伴ったかもしれません。

他のことなら大事にしたり愛しもするのにと書きましたが、そのような方ですので、失うことも愛するという風に変容されたり成長するのもバランスが取れて行かれて良くなる可能性があります。

他の事は愛していらっしゃるので失うことも愛するようにすると良いのではないかということなのですが、愛すると言うと西洋圏やイスラーム圏の生き方を思いますが、失うことを愛そうということになると愛するのですからどんどん失ってみるということになってとんちんかんなことになりかねませんのでそういう風にはしてはいけないです。失うことを愛すると言っても何でもかんでもどんどん失うとか失うようにすれば良いというわけではありません。※基盤が異なる地域の思想をそれ以外の地域の人々がそのまま取り入れようとすることにはこういった風な間違い~その地域の人たちにとって自然で当たり前のことが別の地域の人々にはその基盤になくまたそのことを伝えられもしないと、同じようにしているつもりがまるで見当違いなことになるといったこと~が起こりかねませんので注意が必要です。

そのように失うことを愛すると言っても積極的に何でも失うように変わってはいけないのですが、愛するといういわば積極的な姿勢とは少し違っているかも知れませんが、淡々とした姿勢で臨めるように変わられるとバランスが取れるようになって良いのではないかと思います。何かを失った時や失いそうになっている時にも淡々としているいう風になされば愛するのと似たような姿勢となって良さそうに思われるのですが、消極的とも言えないある種積極性のある愛する姿勢に近いものともなると思われ、バランスが取れそうです。※西洋圏ではそもそも失うことを愛するといった発想はあまり出てこなさそうですね。失うことについては、愛するというよりも失う物事や失いそうになっている物事と失うことで生じる何らかのことを執着を手放すように手放すということが最高の対応とされるような風土でしたと思います。

それから、最善と思われるさらに良い変容の仕方がありますが、それは、失うことをも慈愛の心で受けとめるように変容し成長なさることで、この方法は非常に良いと思います。アンバランスも解消されますし、アジア圏の人にとっては馴染みのある素晴らしい生き方であり在り方と思いますので。ですのでこの方もそのように変わられてアンバランスを解消なさると、他の事よりもお酒を飲むことに強く執着して大量に飲んでしまうということも無くなって行くようになると思われます。

また、失うことを愛するというよりも失うことも他の事と同じように慈愛の心で受けとめるようになさる方が、全体がより調和的に機能するようになると思いますので、そういった意味でも慈愛の心で受けとめるように変わられるという方がお勧めしたい変容方法です。愛すると言うとその対象にだけ集中することに繋がりかねませんので。

最後に、バランスが取れていればどんな時もそれで良いのかと言うとそういった時ばかりではないと思いますが、幸福の実現という観点から見ると全体的に機能しているとやはり最善の実りが実りやすくなりますし、個々の一つ一つが調和して働いていれば尚良い結果となるものですね。