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266.経済活動やお金の様々について~産業や創造のお話から富が平等に分配される星のことまで

これまでのところではよく政治のことは書いていますので珍しくということになりますが、今号では経済活動やお金に関する様々なお話を取り上げながら造船業や創造することその他について書かせていただこうと思います。

§ 造船業について §

生活に必要なものを生み出したり提供したりする経済活動の産業の中には製造業がその一つとしてあり、その製造業の中からは今回は造船業を取り上げさせていただくことにしたのですけれども、それらを商業の内の一つ小売業とまずは比較をしてみた時には、社員間の関係性では、緊密で、完全な商品を製造するために良好な関係を構築しつつも時には切磋琢磨し合うようなライバルでもあるという要素をより持っていらっしゃるという風に見えると思います。

英国の経済学者でいらしたコーリン・クラークさんによる産業分類という分類方法によると、造船業は第二次産業という範疇に入る経済活動なのですが、第二の前の第一次産業は自然との繋がりに開かれている産業で、また一つ飛び越えて第三次産業になりますと人(を通したり介して広がる繋がり)に開かれている産業という風に思われるのですけれども、その中間に存在していらっしゃるという第二次産業は、そうして中間にいらっしゃることにも意味があるようで、第一次産業と第三次産業の二つの分野の両方向へつまりは自然にも人にも、そして人からさらに広がって行く所へも開かれているような産業であり、またそのように開かれていないとならないですし、開かれていることが理想の産業分野であると言えると思います。

このように造船業やひいては製造業を含む第二次産業という分野は第一次産業と第三次産業の中間に存在していて、第三次産業は多様な分野や世界に開かれている産業分野と思いますので、第二次産業にいらっしゃる方にとっては広く対応の出来る自分を実現すること、そしてそれをもっと生活に沿った表現にしますと”人としての器を大きくして行くこと”において非常に適切な状況や環境になっていると言って良いと思いますし、その方次第でそうすることがとても出来るような産業分野と言えると思います。第二次産業のこういった状況や環境というのは、本当に上手に使いこなせた時には飛躍的に自分を成長させて人としての器を最速の早さで大きくするということに非常に期待が出来るものなっていると思います。

人間の器が(まだ)小さな方というのは多様な人々や物事をなかなかとかどうしても受け入れることが出来ないということのために、そうでなければ生じないはずの苦しさやトラブルをも抱えがちになられるものと思うのですけれども、第二次産業はそのような人としての器の小さな方にとってもその器を広げたり大きくして行ける環境となっているということから、宇宙の計らいによってそこに置かれることになる、つまりは(巡り巡って)第二次産業に就業するようになるといったケースもあるようです。どちらかと言うと個人的な希望としましてはそういったケースの方はご自身のますますの幸福や健康の実現のためにもこのお仕事を通して成長させていただこうという風に思っていらっしゃることがやはりとても良いことに繋がるように思いますし、そういった方は第二次産業の仕事に就かれると本当に良く、「人間の器を大きくしよう」という風にお考えになり、そういった目的意識を明確にお持ちになってお仕事をなさいますと非常にすくすくと成長なさることと思いますし、それだけでなくいろいろな状況を最適な望ましいものに変えることも出来たりし、また自然にそういった方向へ変わって行ったりするということも起こり得ることと思います。そのようにして環境なども最上の形の望ましいものになさり、環境を大きな味方にすることが出来るようになっているくらいになられた時には、最速の早さで必要な成長を遂げることもお出来になると思いますし、またそういったその方の在り方や生き方は、ご自身を取り巻く職場での人間関係や昇進などへも望ましく幸福な影響を与えるということも非常に起こり得ることになって来るのだと思います。

それから一般には第二次産業とされる電気・ガス事業については、世界と日本とでは入る産業枠が違っているそうで、日本ではそれら電気・ガス事業は第三次産業ということになっているようですので、日本人のケースでは世界とは解釈が変わるとご理解くださればと思います。日本人で電気・ガス事業にお就きの方々は人や人を通したり介する繋がりにも開かれている産業分野にいらっしゃるということとなり、人としての器を広げ大きくして行くこととはそれほど関係の無い方にも向いているようになっているようです。

また今回は少し考えさせられたことがありまして、それは日本での電気事業に携わる方々がなさっておられます原子力発電についてのことなのですが、いつもお話ししていますように前世紀は欧米諸国主導の時代でしたし、その最後の段階あたりでは特に日本は時代の潮流の中央に非常に近い位置にいたと思うのですけれども、そういったことから欧米諸国の一般的な価値観を無意識の内にも取り入れるなどし、何らかのマイナスの影響があったとかそのことが問題を引き起こす類の混乱等を発生させているということが無ければ良いと思いましたし、そういった混乱が原子力発電に関わる日本の様々な問題の原因となったり引き起こす要因となっているとしたなら、それらを整理して行くと日本での原子力発電に関わる問題やトラブルなども解決して行くことが出来るのではないかとも思いました。

それでは最後にまた造船業の方へお話を戻します。造船業に携わる方々が製造なさられます船は生命に直接関わることになる商品ですので、完全な商品を製造出来るように心がけるということが絶対的に必要となりますが、そのためスペースラブメッセージvol.263に書きましたように日本の愛知県の方が仰っていましたように、同じくものづくりのお仕事であっても生命に直接関わりのない分野での製作に携わっていらっしゃる方による言葉ではありましたが「完全なものなどない」ということを言っているようではいけないということになります。冒頭部分で書きましたように社員間の関係性において良好な関係を構築しつつも時には切磋琢磨し合うようなライバルでもあるという複雑とも言える要素をより持っていらっしゃるように思われるのも完全な商品を製造するために必要となるからでもあるのかもしれません。造船業などのケースは生命に直接関わる商品を製造するということからもそのように複雑な方が良くまたそうである必要性も持っているということで、造船業を含む製造業の産業分野で働く方々はそういったことへの対応力もまた必要とされそうです。

§ 創造的な(仕)事について §

(そういった複雑さを持っているとは言え)製造業では社員同士が仲を良くするようにするということもやはり必要なこととなり大事なことでもあると思いますが、そういった仲を良くしたり協調することに繋がるような集団的な在り方ではいけなくなるとか、出来るだけ個人として在らなければならなくなるとか~これは孤高な存在となることに繋がるものでしょうか~、他者とはある程度以上の距離を保っていなければならなくなるといった、緊密な人間関係を必要とすることとは真逆の”孤独である在り方”を必要とする職種や状況というものもまた存在していると思うのですけれども、それは創造的な(仕)事を行う状況であると思います。創造的作業というのは唯一にと言って良いほどに、それ以外の物事と比較しますと圧倒的なまでに、そして普遍的に変わることなくも孤独な状況を必要とするものと思います。

それは創造というものが個々の存在の最も深いところから行われることであり、孤独な状況に置かれることで創造性の源泉からエッセンスを汲み出して来ることが(容易に)出来るようになり創造出来るということからであると思いますけれど、そういったことが出来ない人、例えば私などからすると、そういった本物の創造とは、全く何も存在していないようにしか見えないところから一瞬の間に何かや創造なさりたいものを取り出してくるといった風なものに見えます。マジックで(それまでには)何も入っていなかったように見えたお帽子から花などが出て来るというものがありますけれども、創造はそういったものに限りなく近いもののように思います。

また先ほども書きましたが創造においては一瞬の間になされてしまうというところがいろいろな意味で見るべきポイントとなるようです。(創造の出来る方は)一瞬の間に創造なさってしまうといった風に見える(事柄も多い)ため、その際に使われる力も尋常なものではないということもあるのでしょうね、そのようなことが出来ない人間からすると「どうしてこんなことが出来るのだろう」という驚きやそして尊敬をも感じざるを得ないようなことをなさっていらっしゃると思うのですけれども、そういったパワフルで創造性を豊かにお持ちの方は非常に簡単に創造することが出来、しかも尋常ではないほどの力も使って一瞬で様々な創造が行うことがお出来になられるようです。またそういったことはしかし、パワフルで創造性を豊かにお持ちの方々には努力を行うことが苦手でいらしたり積み重ねるということをしないご様子でいらっしゃることや、それ以前のこととしてコツコツ努力することを思いつかないという人もまだまだ多くいらっしゃるということにも繋がっているようで、一瞬で様々な創造が簡単に行えるとしたなら、積み重る行為でもある努力の必要性を思いつかなくなったり感じられなくなったりなさるということは容易に想像がつきますし、努力の意義も分かりにくくなったりするということが理解出来ますけれども、”創造すること”は”実現すること”~この(創造することとは異なる)実現するということに関しては後ほどスペースラブでのセッションを例として書かせていただいております~とも似通っているところがありますし 創造性豊かな方々が努力をなさられるレベルに完全に到達なさった時には欠如が無いレベルも超えてプラスとなり、表現が適切かは疑問もありますけれども幸福な出来事を実現することにも優れて無敵で最強と言っても良いような存在となられることも出来るものです。努力を行うようにもなるという方向へ変容なさられて行くということが幸福がさらによりいっそう増すかどうかのポイントとなりますので、創造性を豊かにお持ちの方々にとってはそのようになさるのが非常に良く幸福な出来事や将来の実現に繋がって行くと思います。

先ほどのお話にも戻りますが、孤独な状況を必要とし、協調し合わないことがむしろ必要とされるのが創造的行為ということなのですが、それではそのことが個人ではなく集団となった時にも同じように創造を行うことが出来るかどうかというお話になると、集団が他の人々や集団から孤独である状況でなおかつ創造の源泉に触れられるような状況という少し特殊なケースではやはり可能ではないかと思います。そういったことは、それが精神や心のレベルのお話ではないからということのためなのでしょうね、私自身にはあまりそのような経験をした記憶が無いように思いますけれど、集団の団員すべてが共にたった一つのスピリットを持っているようなそういった状況でなら可能と思われるということになるのですけれども、考えている内に日本でならアニメーション映画制作を行っていらっしゃる、経済活動としても大成功を収めておいでの宮崎駿さんの集まりがそのようなものもしれないとふと思いつきました。どのようにして集まっていらっしゃるのかは知らないのですが、一丸となるようにして集まられた方々が共に一つだけのスピリットを持ち、スピリットレベルの創造の源泉からエッセンスや何らかのものを汲み出して制作なさられて、作品として創造を実現なさっているという、集団として創造を行えているケースではないのかな、、と思います。またそういった個人的なものではない集団となっての創造に関しましては、アフリカ大陸主導の時代になっているということもあって、これからは全くと言って良いほどの新しい方法が使用なされるようになるということも期待出来るように思われます。

スペースラブではそのような団体やプロジェクトへも遠隔ヒーリングを行うことが出来ますし、ヒーリングやカウンセリングセッションは願いや希望をお持ちの方にとってそれらを”実現”することが出来るようにすることにもなり得るものなのですけれども、創造性豊かな方々が”創造”なさるのを傍で見ていると私などには「こういったことがまさに本物の創造」と思えて来るものなのですけれども、スペースラブでのヒーリングやカウンセリングセッションによって成就させることになる願いの実現というのは、往々にして努力その他の積み重ねによって実現させるものですので、創造性豊かな方々が行われる”創造”とセッションでお越しになった方々が行えるようになる”実現”は本質的には似て非なるものですし経緯なども異なることがあるものです。例としては創造行為においては(おそらく一時に)必要とされたり使われるパワーが尋常でないレベルであるのに対してスペースラブのセッションでの実現においては創造する時ほどにはパワーを必要としません。

スペースラブのセッションでは、意識を変容させたり向上させたり時には行動も(変化)させたりするものですし、また往々にして、願いの規模が大きいケースや実現から遠いレベルにいらっしゃる場合には特にということになりますが必要なことを積み重ねることによって実現させて行くものですので、願いの内容に自分が持つ創造性を発揮して創造したいというケースでしかもそういったことがお出来になる方には創造出来ますように援助を行うことは出来ますが、創造と実現の違いが分かるようになるとこちらスペースラブでは真の意味での創造とは言えないセッションしか行うことは出来ないことが分かって来ています。

§ 人類にとっての新しい地平線を開いたと思われるジークムント・フロイト §

創造には孤独である在り方が必要ということですけれども、そういった孤独な状況から誕生なされたことだったのでしょうか、この地球では1800年頃に、精神分析医でいらしたジークムント・フロイトさんという人間の心理に関する専門家の方がいらっしゃいましたが、彼は全く新しい見方となる無意識という領域の発見についてなどの発表をなさったり、そのことにも伴うようにして全く新しい心理や人間に関する理論なども編み出され、構築もなさられたようです。フロイトさんが発表なさいました無意識というものは人の中にもともと在ったものですので発見によることとは思いますが、理論の構築のなさり方などを拝見しますと創造でもあったのではないかとも思います。

全く新しい見方や理論をお作りになった方ということはかなり孤独な状況を敢えて創り出していらしたとか孤独な環境に居るようになさっていたのかなと思うのですけれども、お弟子さんも沢山いらっしゃる方のようですが、創造的にも仕事をある程度なさった後にお弟子さんなどの大勢の方々に囲まれるようになったのかもしれませんし、たとえ周りに人がいらしても存在や精神などを孤独な環境に置くということが容易に行えた方だったのかもしれませんね。

フロイトさんのことは、私個人としましては、無意識の発見という誰も出来なかったことをなさった方であり、”微笑ましさを感じられる叔父さん”という感じのする方に見えるのですけれども、そういった風に見えるのには人類にとっての新たな地平線を開くような偉大なことをなさられたことで余裕がとてもおありだからということがあるのでしょうか。

ここで、少しお話が横道に逸れてしまうのですが丁度良い機会と思いましたので、今書かせていただきました表現について取り上げながら日本の伝統のかかあ天下の具体的な内容について少しお知らせさせていただくことにいたしますけれども、この”微笑ましさを感じられるような叔父さん”という表現は、これこそがかかあ天下風の表現と言えるもののことです。日本人女性の私が書いているということでどうしようもなくそうなって来ると言えるのかもしれませんが、こういった表現はまさにそれと言えるものですし、”微笑ましさを感じる叔父さん”には否定的な内容や言葉は入っていませんが、否定的な内容や言葉も入れて表現なさっているケースもよくお見かけするのですけれども、日本人以外の世界の多く方々であれば(日本独特のかかあ天下的な表現が世界の標準とはかけ離れているために)否定的な内容や言葉も入っているとよりいっそう怒りをお感じになったり恐れをお持ちになるなどなさられるようです。

それから説明として分かりやすいものなのではないかということで、エピソードは後ほどに取り上げさせていただいておりますイスカリオテのユダさんの問題点だったことへお話をするとするとということでもう一つの例として書かせていただきますと、彼に対して「(もう)、お金にこだわり過ぎ」と言うとかかあ天下風にお話をしているということになります。そしてこの「過ぎ」のすぐ後にニュアンスとして「、、」や「!」といった表現を使われましてもかかあ天下風になっていると言えますが、「ユダさん」という呼びかけるための言葉は入れて良くても「あなた」を入れるとかかあ天下風とは言えない言い方となると思います。また丁寧語を使ったお話もかかあ天下風のものとは違う表現になると思いますので「あなた(は)お金にこだわり過ぎていますよ」と彼にお話ししたとするとそれはかかあ天下風ではない表現を使っているということになります。「(もう)お金にこだわり過ぎ」というようなお話の仕方は、日本人の方であれば当たり前となっているものですし、男性であっても女性であってもそれのどこがいけないのか皆目見当も付かないとか分かりにくいと思われるかもしれませんが、こういった表現が世界の標準とはかけ離れているかかあ天下風のお話の仕方と言えるものです。

それではまたフロイトさんの方にお話を戻しますけれども、フロイトさんはユダヤ教からキリスト教へ改宗なさった方らしいのですが、ここからは{ユダ}という部分について、ヘブライ語表記による文字が酷似しておりまた英語においては語源が同じのイエス・キリストをお金で売るようにして裏切ったイスカリオテのユダさんとユダヤ人とユダヤ教のことへお話を広げながらフロイトさんの理論についても書かせていただこうと思います。

・{ユダ}のヘブライ語表記による文字が酷似しており、英語においては語源が同じであるユダヤ教、イスカリオテのユダさん、ユダヤ人との関連

フロイトさんが構築なさった理論には性に関する内容の物事が多く見受けられるようなのですけれども、最初それはフロイトさんがユダヤ教徒でいらしたことからかと思いました。と言うのも、同じヤハウェの神から生まれた宗教であるユダヤ教、イスラム教、キリスト教の中で最も物質的な教えのある宗教がユダヤ教と思うからです。

しかしだんだんと後になって、そういったことも要因としてはあったのかもしれないけれどもフロイトさんのお見立てが地球では本当に新しい見方であるというところがあったからでもあったのではないかという風にも思われるようになったのですが、と言うのもフロイトさんが構築なさった理論は全く新しい類のものだったため、そのことに集中するようにして理論なども構築して行かなければならなかったからそうなったとも思われたということなのですけれども、人は寿命も限られていますのでそんな風に行うしかなかったと言いますか、、お弟子さんもいらした方のようですのでそういった方々に任せるようになさっても良かったかもしれませんし任せていらしたのかもしれませんが、そうお気づきになったのは集中して構築なさった後のことだったなども考えられることと思います。

名前というのは同じであると意味のあることがよくあるものですけれども、フロイトさんが改宗なさった方のキリスト教の過去には、ユダヤ教という名称の{ユダ}の部分の語源が同じである名前を持つ、イエス・キリストをお金で売るようなことをして裏切ったイスオリオテのユダさんという方がいらっしゃり、そのユダさんがイエス・キリストを裏切った理由の一つに彼が当時お金にこだわり過ぎていたことが見受けられると思うのですが、これらの「ユダ」は”神を賛美する”という意味だそうなのですが、当時のイスカリオテのユダさんの神の賛美の仕方はイエス・キリストをお金で売ってしまえるほどにお金にこだわるものでもあったということだったと思いますし、またそのことは「物質的になる」とか「物質的である」ということにも繋がっていると思われるのですけれども、イスカリオテのユダさんのユダと語源を同じくする物事~例えばユダヤ教やユダヤ人の方々~というのは、事情についてはこの後の部分に書かせていただいていますが前世紀からまだあまり時間が経過していないということもあって今も尚お金にこだわれるくらいに物質的なところをお持ちであると思います。

イスカリオテのユダさんのユダと語源を同じくするユダが名前に入っているユダヤ教やユダヤ人の方々はお金にこだわれるくらいに物質的な性質や傾向をお持ちであり、物質的なところがあるということを書かせていただいているのですが、物質的ということになると物質の持つ性質や傾向や影響なども受けるもののようで、その物質という物事は例えばエネルギーや精神などより曖昧な部分が無いと言えるものであると思うのですけれども、そういったはっきりとするとかはっきりとしたものになりやすいという性質は、物質が関係している事柄は決定的なものになりやすいということに繋がって行くと思うのですけれども、昨年の秋でしたでしょうか、ブログに書きましたようにまだ伸びる前のことであっても物質である身体の身長はそれを一旦決定してしまうと全身がバランスを取りながら伸びて行くために必ずそうなることになりますしまた伸びてしまった後の変更は効きません。また英語での諺に「It is no use crying over spilt milk.」というものがあるのですけれども、これも(物質である)牛乳であれば一旦こぼれてしまったら二度と前の所には戻らないということを示しているものですし、物質である身体も一度死んだら生き返ることはなくある種非情な性質とも言える分野と思いますし、変更なども効かなくなった時には絶対的に効かなくなるものです。

ユダヤ教の方は曲がりなりにも宗教ですのでそのように非情になってしまうとも言える傾向を強めることへの注意点などは特に無いのかもしれませんし、そういった偏りを補うための信仰の方法もまた持っていらっしゃるのかもしれないのですけれども、現実の中でユダヤ人として生きて行かれます時には今はまだ注意すべきことがあるように見える点があると思われるのですが、このことはユダヤ民族独自の国家であるイスラエルのことにもあてはまると思いますが、それは(そうではない方々からすると)何事も割り切り過ぎてしまう側面のことです。{ユダ}ヤ風の物質的な在り方が精神の分野へ影響を及ぼすと、良くも悪くも多くの物事についてスパッと割り切ってしまうようになられるようで、ユダヤ人の方々は例えば自分の非をお認めになる時などに、竹を割ったようにといった表現に近いようにして本当にとても清々しいほどに、そしてしかもあまり見たことがないくらいの優れたレベルでスパッとお認めになれるようなのですが、そういった風に非常に割り切れるという精神的傾向が良いように働いた時には、割り切っても良い状況では「割り切ることが上手に出来る」という風になったり、能力の一つとして持っているということにも繋がって行くと思います。ユダヤ人の方々はご自身の非を認める時にもそんな風に清々しくしていらっしゃるため、とても素敵な方々ということが私にもよく理解出来ましたしとても好感を感じるのですが、この非情なほどに割り切るという方法や能力をお持ちだったからこそそうでない方々には出来ないような物事やヴィジョンを成就出来たということがこれまでにもおありだったのだろうと思われる反面、ご自身に関することにおいてもスパッと割り切ってしまってお辛い状況などにならなかったかと思いましたし、割り切ることは(良くない意味でも)切り捨てるということにも繋がる方法と思いますので必要な時には適切なご対応をなさった方が良いと思われますし、特に他者や他国が関わる事柄にお使いになる時には、他者であるだけに細心の注意を払うと良いのではないかと思われます。これまでにもすっきりと割り切った結果、他者から良いように受け取られずトラブルとなったり、他国や特に近隣国に「あの国は(相当)割り切っているから、、」という風に思われ、正しく理解されず誤解までされてトラブルに発展したということはあったのではないかと思いますので、物事を割り切り過ぎることでトラブルが生じる可能性を高めてしまうことがある側面についてはこれからも充分にお気をつけた方が良いと思います。

そして、この後の小項目のところにもう少し詳しく書いていることなのですが、イエス・キリストが誕生なさられてから2000年の間、イスカリオテのユダさんのユダと語源を同じくする物事(名前など)は特別な意味を持つものだったのですけれども、そのユダという名前が持つことになりました負のカルマは今はもう返済済みとなっていて無くなっているようですが、お金にこだわるところや物質的過ぎるところは偏りとして今もまだ存在していると思いますのでこちらについては解決することがまだ必要と思います。この{ユダ}は「神を賛美する」という意味を持つそうですが、イスカリオテのユダさんは神の賛美の仕方に問題があったのでしょうけれど、ユダヤ人の方々にとっては神を賛美することがお金を多く持つことや敢えて持とうとすることにも繋がっているように思いますし、ユダヤ教については神を賛美することが同じ神から誕生した3つの宗教の内で最も物質的と言える宗教になっているということに繋がって来たように思います。これからは神を賛美なさることも(さらに)完全な方法で行えるようになられますと良いですね。

それではここからはまたフロイトさんやその理論の方へお話を戻しますけれども、提唱して下さった理論には性に関する内容のものが多いということですけれども、日本のことで同じか似たようなお話が何か無いかと考えてみた時には、根本的には全くと言ってよいほどにそして表層的にも少し違うこととは思いましたが、日本国内でどこが最も情熱的な性質が高い地域になっているかと言うと南の方の九州地方がそうなっていると思ったのですけれども、こういったことにもヨーロッパと日本とでは「ヨーロッパの方では性」「日本では情熱」となるなどして相違が生じることがあるということを新たに発見した気がしまして面白さを感じました。※フロイトさんは後々に米国に移住なさられたのではなかったかと思いますが、米国で理論の構築がなされたということはあったかもしれませんが、もともといらしたヨーロッパでヨーロッパ人としてのフロイトさんが編みだし構築なさったという風に思いますので、ヨーロッパ(人)でのとかヨーロッパ的な出来事として書かせていただいております。

・ヨーロッパとの関連

現代から少し前までの時代のお話ですが、欧米諸国が主導しておられ、またスピリチュアル的な表現を使いますとイエス・キリストの誕生から始まりました2000年間は、キリスト教を信仰するということで繋がっていらっしゃる西洋と呼ばれます地域の時代だったと言えると思うのですけれども、そのことはかえってと言うのでしょうね、信じられないほどに壮大なことに新しい時代の始まりの方として現れられたイエス・キリストを裏切った方ということでイスカリオテのユダさんのユダと語源を同じくする物事(名前など)を持つものに負のカルマを存在させてしまうことになってしまったと思います。現代から少し前までの時代にはこの{ユダ}もまた、影の部分としてということになるのでしょうけれどもこの地球では特別な意味を持つ物事(名前など)だったということになります。

そして、そのようにこの地球では前前世紀の幕開けからイスカリオテのユダさんのユダを語源に持つ名前などが負のカルマを背負うということになりましたため、ユダヤ人と呼ばれる方々もまた、別に何かを裏切ったわけでもなかったでしょうに負のカルマを背負うこととなりました。カルマというものは、作ってしまって出来てしまうとどのようにもしようのないものとなりますし、それが負のカルマの場合であれば、またバランスを取り戻すために返済することが決定なされた時などは特に、様々な方法や道筋があるとは思いますが幸福ではないと言って良いような方向へ自動的に進んで行くことになったりするものですけれども、ユダヤ人の方々もそれで、基としてはキリスト教で繋がっている西洋地域主導の時代のその主流(地域)のヨーロッパで(キリスト教徒たちに)金貸し業:高利貸へと追いやられるようなことにもなってしまったのだと思います。

また、ユダヤ人の方々がヨーロッパで高利貸業へ追いやられるようになりましたのは、とてつもないような状態となってしまった負のカルマを背負っていたからと思われるということなのですが、2000年というとても長い時間の中でのこととして、イスカリオテのユダさんのユダと語源を同じくする物事や名前を持つ方々がまた持っていらした「お金にこだわり過ぎる」「物質的過ぎている」という性質や傾向に関することでは、ヨーロッパでも様々な事情や状況によって修正がなされるということも結果的に起こらなかったようでしたし、それどころか偏りに拍車がかかってしまうことにもなってしまったという風に見えるのですが、この偏りは問題あるところと言えるものと思いますので、{ユダ}のある方でまだこの偏りを解決出来ていらっしゃらない方はこれから解決することが必要と思います。またヨーロッパでのユダヤ人の方々を取り巻くケースでは、ユダヤ人の方々の偏りを修正するどころか拍車をかけることに(積極的に)荷担したということになります追いやった側にも何かしらのカルマが出来たものと思われました。

2000年という長い時の間にイスカリオテのユダさんのユダが背負うこととなったカルマの返済についてはもう終わっているように見受けられるのですけれども、時代をまたぐようにして壮大な負のカルマをある一つの言葉や名前が持っていたり持つようになったりしたということを知りました時にはまずはとても驚きましたが、同時に、今はもうその負のカルマは無くなっているご様子なのを拝見出来、本当に良かったと思いましたし祝福をお伝えしたくもなりました。この負のカルマの返済というものがユダヤ人の方々にとってどれほどまで大変なことだったのだろうと思いましたし、またそれらがすべて返済なされたということには本当になんとも言えないほどの非常な感動を感じます。

過去にはこのような事情や経緯をお持ちのヨーロッパとフロイトさんとの関連については、ヨーロッパは、ヨーロッパを始めとする西洋と呼ばれる地域の基であるキリスト教に輪廻転生の発想がもともとは無かったということもあり、存在の深みを増すということが出来にくい状況や環境にあった地域と思いますが、フロイトさんはそういった所で生きられた方であり、悪までもが底の浅いものとなってしまうようなシステムの中で生きられた方だったと思いますけれど、そのため、フロイトさんによる無意識の発見という出来事は、上方から降って来る(叡智の)光に打たれるようにしての出来事でもあったのではないかと思われます。もしもこのことが東洋で生じたことだったとしたなら、海などの底の方へと進んで行くような様々なことを深めるようにしての出来事となったのかもしれないと思います。

§ 富が平等に分配なされる地球へ §

フロイトさんが提唱なさった考え方や理論には性に関する内容が多く見られるということなのですけれども、イエス・キリストは愛について教えるためにも生まれていらした方であると思うのですけれども、基はキリスト教で繋がっていらっしゃる西洋地域主導の2000年の最後の段階ではついにと言いますか、性は愛することにも関係のあることですので、フロイトさんのような方が現れて様々な理論が編み出され構築なされたということには明らかに意味があったことと思います。

数年前に読みました食糧危機問題について書かれた本には現代では性と食が全世界的な娯楽となっているということが書かれていて、食糧危機問題というのは人口が爆発的に増えている現代の現象と切り離せないものであるとのことでしたが、愛(すること)が最も大事なことであるという素晴らしい教えを持って誕生していらしたイエス・キリストから始まった2000年だったために、地球上の人の数を増加させることにも繋がる性に関することもまた、様々にということになるのでしょうか、発展したところがあったのでしょうね。

人の数がそのように多くなり過ぎている現代の状況は貧困問題にも繋がることで、富が平等に分配なされることなどによって貧しい方を一人も出さなくなるというのが私やスペースラブの願いであり最も実現したいことの一つなのですが、既に貧しい方がいらっしゃるというのに、これ以上に人数が増え、しかもそれが爆発的にということであればますます困ることになりますので、貧しい方が一人もいない地球を実現するために、人口が爆発的に増加しているという現代の問題については出来るだけ早急に解決がなされるということが必要と思いますし、2つ目の項目のところに書きましたように(一瞬で)貧しい方が一人もいなくなる星にするといった創造行為を行うとしたなら、根幹からの変換として貨幣の価値そのものを無くしてしまうとか少なくとも今の状態では無くしてしまって、それで貧しくなる状況や可能性を一掃するといった方法が可能に出来る方法としてあると思います。

貧しさや豊かさについてのお話としては、この地球も含めて宇宙には必ず豊かさをスピリットから愛している方がいらっしゃるため、地球にもそういった方々が豊かになれるようにしておくこと、つまり豊かになれる方法や道を備えておくということは絶対的に必要なことと思いますし、物を持たない状況を愛する方々はいらしても貧しい状態そのものをスピリットから愛する方はいらっしゃらないような気がしますので、これからは貧しくなるという可能性のみを消滅させるようにして、スピリットから豊かになることの方は望む方にはそのように出来る仕組みを残しておくと良いように思われます。

このように例えば豊かさと貧しさについてといった風にいつも様々なことを比較しながらもお話しさせていただいていますが、その対象となる物事の殆どは地球上での物事で、視野を宇宙にまで広げて比較をしようとするとそれらはあまりに多く多様で、比較をすることの良くない面やマイナスの影響だけがこぼれ落ち、削ぎ落とされて行くような気がして来るのですけれども、比較というのはそれを行うとどういうことが素晴らしく幸福なことであるのかがはっきりとするものであると思いますが、幸福なことが何なのかを知るための比較検討のためのありがちな出来事としての豊かさや貧しさについては、豊かさをスピリットから愛していらっしゃる方々が自分の本当の姿を知るために幸福では無い出来事として貧しい状態をまずは体験してみるという出来事は絶対的に必要なものではないと思います。

これからは豊かさをスピリットから愛する方々も最初から豊かになられることを望んで実現して行けば良いのでしょうし、何が素晴らしく幸福なことなのかという真実を知るための比較検討のための貧しい状態はやはり絶対的には必要でないものでしょうし、誰にとってもそのように絶対的に必要な状況でないと思われます貧しい状況というものがこの地球上から完全に無くなります日がやって来ますことを心から願うものです。